貴方らしく生きるのをサポートします!人生のグレードアップを☆☆☆

今、貴方が抱えている人生の悩みには、貴方らしく生きるための重要なヒントや答えが隠されています。

どうしようもなく焦りに追われるとき

常に余裕な気持ちでいれれば一番良いことですが、なかなかそれを維持し続けることはできません。

 
原因があって焦る時が生じるということであれば、その原因を対処すればいいので問題解決しやすいです。
 
しかし、厄介なのは原因不明の「焦り」です。
 
カウンセリングをしていると、多くの方々が原因不明の「焦り」を経験されているという現実を目の当たりにします。
 
ちなみに私も「原因不明の焦りを感ずる人」でした。
取り越し苦労のスペシャリストとでもいいましょうか。
 
まぁ原因不明というと非常におそろしく感じるものですが、人であれば「焦ることもある」という事実を素直に受け入れることが大事です。
 
焦ってはいけない!!と抑えれば抑える程、気持ちが増大するのは当然のことです。
 
焦ってもいい
 
いいのですが、
焦りが過剰に働くと、自分を見失います。
 
原因不明の焦りというものは、じつは原因不明ではなくて
 
●他人との比較や情報の影響
 
●過去の記憶
 
●まだ訪れてもいない未来の想像
 
等のパワーに翻弄されてしまったときに生じやすいです。
 
特に、他人との比較や情報の影響は良くも悪くも強いです。
 
ネットが普及してからというもの、家にいても常に他人と比較できる環境にあるからです。
 
家にいて「今日は休もう」と思っても、ネットを見たときにツイッターなどで、「私は今日はバリバリ仕事しています!!」という他人のツイートを見たときに、どう思いますか?
 
気にしない人もいますが、
「私は今日は休みなのに、この人はバリバリ働いている。。」と罪悪感に苛まれる人も多いです。
 
「私よりあの人の方が幸せそう」と、根拠なく結論を出してしまうことも落ち込みの原因になっていること多いです。
 
 
過剰なる情報摂取を休憩することが大事だと思います。
 
 
それでは今日も最後までお読みくださいましてありがとうございました。
 
 
 

「自信」と「慢心」の違い

「自信」とは自分を信じること。

 
自分を信じるというのはとても大事なことです。
 
自分を信じるって「特別な人や強い人だけが出来る特権」と思いがちですが、そういうことではありません。
 
今の自分の気持ちを自分が分かってあげれるかどうかなのだと思います。
 
喜んでる
 
楽しんでる
 
悲しい
 
怒りがある
 
好き
 
嫌い
 
合う
 
合わない
 
心地いい
 
違和感がある
 
 
こういった様々な気持ちを否定することなく「自分が分かっていること」が自分を信じる自信です。(※相手に分かってもらえるかどうかではないのです。先ずは自分の心の中で自分を分かっていること)
 
対して「慢心」というのは、
自慢していい気になること
驕り高ぶること
です。
 
慢心は過度になり過ぎれば、自分や周りが見えなくなり道を外れてしまうことがあるわけですから控えたほうがいいですが、
自信は持っていたほうがいいです。
 
自信がない=自分を信じていません
 
と断言しているようなものですから、他人を信じやすくなる傾向が強くなるため、今のご時世、他人から騙されてしまう可能性が高くなります。
 
自信を持つことで、相手の言うことに耳を傾けないという意味ではありません。
 
相手に耳を傾けることがあっても自分を信じていなければ相手の意識に翻弄されてしまうのです。
 
 
自信と慢心て意味合いが似ているようで、全然違うということに過去の私自身も気づいていませんでした。
 
日本語は言葉が多すぎて本当に混同しますね。
 
自分のことは信じていたほうがいいのですが、何故自分を信じられなくなってきたかは「過去に人から感情を否定された」「人格を否定された」「失敗という経験により心に傷を受けた」等が深く影響しています。
 
なので、成功体験を積めば自信がつく、自信を取り戻せると思われがちですが、成功体験を積めば自信を取り戻せるのではなくて、今日からでも実は自信て取り戻せるのですよ。
 
自信を取り戻すことに特別な資格やテクニックが必要だと思いますか?
 
難しく考えれば考える程、心というのはワケが分からなくなるものです。
 
答えはシンプルなのです。
 
 
 
今日も最後までお読みくださいまして本当にありがとうございました。
 

人の心にタイムラグが発生している。テクニック、専門用語にクタクター。

ネガティブになったとき、弱気になったとき、
「自信を取り戻したい!!」との思いで自己啓発本を購入し、モチベーションを取り戻したり、柔軟な発想を取り戻すことは悪いことではありません。
 
しかし、自己啓発本のテクニックや専門用語に翻弄されると自分を見失うのは当然です。
 
 
引き寄せの法則ってありますよね?あれ、実践しているのに全然効果がないんですけど、何でだと思います?」
こういった会話を耳にしたことがあります。
 
 
「引き寄せってどんなことをしているんですか?」とお聞きすると
 
「部屋で意識を集中し、潜在意識になりたい私をイメージさせている」とのことでした。
 
うーん、、、答えは明確です。
 
イメージすることはイメージトレーニングとしては大事だけども、肝心なアクションが無ければ勝手にイメージされた映像が実写化されることはありません。
 
 
「ラーメンを食べたい」
と思ったときに
部屋でずーっと集中してラーメンを食べてるイメージをすれば、そこにいきなりラーメンが出現するでしょうか?
 
「食べに行く」
「自分で作る」
「家族の誰かに作ってもらう」
 
何らかのアクションをすればたしかに願いは叶えられます。
 
ですが以下のスパイラルに陥るとなかなか抜け出せません。
 
ラーメンを食べる際にどの選択肢がいいんだろう?
「自分では分からない。。」
 
「運気的に今は不安定と言われたから。怖い。」
 
「もしも自分が決めることが間違っていたら。。」
 
「どの方角のラーメン屋さんに行けばいいんだろうか。。」
 
「自信をつけるセミナーに通ってからラーメンを食べに行こう。うん、きっとそのほうがいい。。」
 
「美味しくなかったらどうしよう。。」
 
「せっかく行っても定休日だったらどうしよう。。」
 
ラーメンを食べることの方法に「正しい」「間違い」はありません。
 
食べたいラーメンを食べたらいいのです。
 
「さっきまでは食べたかったんだけど、今はいいや」
と思うのであれば食べなくてもいいのです。
 
 
今の時代背景でしょうか。
 
「成功=失敗」「失敗=成功」この繰り返しをしてゆくのが人生であるにも関わらず、「失敗はいけない」と思い込まさせられているこのイメージ自体を緩和することが大事なのだとつくづく痛感します。
 
 
僕も過去にこのスパイラルに何度も陥ったことがあります。
これ、クタクタになるんですよ。
 
何が正しいのか間違っているのか、自分の道が誤っていたのか、といろんなところに意識が囚われますし、八方塞がりに感じてしまうのです。
 
 
「ウォーキングをしたい」と思ったときに
 
「だが、その前にまずはウォーキングの正しい知識本を買ってから」
となるんじゃなくて今ウォーキングすればいいのです。
ウォーキングの正しい知識本を読み終えた頃には
「歩いた気分」になってしまい、
「ウォーキングは明日からやることにしよう」
に意識が変わってることありませんか?
 
人の心にタイムラグが発生してしまっている。
 
人の意識って不思議なもんです。
 
これからの課題です。
 
 
長々とした文章になりましたが、最後までお読みくださいましてありがとうございました。
 
 
 

何を考えているかが分からないと感じる時

「何を悩んでいるのかが分からない」

 
「何をしていても楽しめない」
 
こういった気持ちになるとき、不安になります。
早く打破しなければと焦る気持ちにもなります。
 
ストレスがパンパンに溜まった状態になると、ストレスフルから脳も身体も心もフリーズ(固まる)状態になるのです。
 
フリーズ状態になる。焦る。不安になる。
だから悪いのではないのです。
 
人間であればいっぱいいっぱいの状態になれば誰しもそのようになります。
 
パソコンでフリーズ状態を経験したことありませんか?
そのような時、どうやって対処していますか?
 
パソコンを叩きますか?
 
「役立たずのパソコンめ!!」と罵声を浴びせますか?
 
冷静にパソコンの電源を切ってみたりフリーズ状態が自然に解消されるのをしばらく待ってみますか?
 
専門家に問い合わせてみますか?
 
 
いろんな対処法が十人十色ありますが、
対処の仕方ひとつで、流れというものは随分変わるものです。
 
今回はパソコンをたとえにしてみました。
 
 
最後までお読みくださいましてありがとうございました。
 

最近思っていること

なんだかモヤモヤする。

 
原因が分かりながらモヤつく時。
 
原因が分からずモヤつく時。
 
どちらもあるものです。
 
最近お越しくださる方で
「早めに相談しておけばよかった。でも相談する気力すら出なかったんです」
とおっしゃられることが多いです。
 
このお気持ちよく分かります。
 
「ストレスが溜まる」を通り越し、「ストレスフル」の状態になるともはや何もしたくないという状況に陥ります。
 
現代社会はお家に帰っても、気持ちが休まらないことが多いです。
 
お家でも人間関係が存在する。
 
たとえ一人暮らしをしていても、お家でソーシャルネットワークやメール、電話などのやりとりが続く。
 
脳からすれば、理論的には「家にいる」と認識していても感覚的には「人間関係がそこにある」と捉えてしまい、本当の意味で気が休まりません。
 
挙げ句の果てには、インターネットやテレビなどから絶え間なく影響力を良くも悪くも受け取りますので、感受性が強い方であればその日のうちに自分の軸が揺らぐことも多いです。
 
他人との比較に苛まれることが増えてませんか?
 
僕は今日までサロンを開業しての8年間、心理カウンセリング、スピリチュアルカウンセリング、整体、エネルギーヒーリングと経験させてもらっていますが、もはやどの手法が最高であるということが断言できません。
 
何かに偏ることでなく、すべては「バランス」であり「臨機応変」がこれからの時代のカギになることでしょう。
 
近年ではカウンセラー、セラピスト、医療従事者、経営者の方々がお越しくださることが圧倒的に増えました。
 
「せっかく資格をとったのに、自分はなぜこんなにも疲れてしまうのか」
「癒しを提供する身でありながら自分自身がカウンセリングを受けるなんて恥ずかしい話です」
「人の前では元気でなくても笑顔でいなければならない。私はカウンセラーだからという概念に疲れた」
「私は経営者をしている立場。皆から強いと思われているので弱音を吐き出すことはできない」
 
ということをご相談されることが多いですが、恥ずるべきことでも何でもありません。
 
どんな仕事であれ、肩書きが何であれ、誰にも共通していることがあります。
 
私たちは人間であること。
 
常に元気でいれるはずがない。
 
強いときもあれば弱くなるときもある。
 
自信に満ち溢れるときもあればどうしようもなく自信が無くなるときもある。
 
幸せを感じるときもあれば不幸を感じるときもある。
 
このように日々波打つことは、人が生きている「証」というもの。
 
ここ数年、僕自身も大きく心が揺れました。
 
心理学や精神に関わるスピリチュアル、整体、エネルギーヒーリングと、どれが一番自分にとってベストを発揮できるのだろうと。
 
今年に入りようやく一つの答えが出たのが、偏らないことが大事ということ。
 
今までのことは活かせばいい。
 
でも、過去の経験や知識に縛られるのでは本末転倒。
 
僕もカウンセラーという言葉に縛られたことがあります。
 
「カウンセラーであれば自分の心を把握し、コントロールできねばならない」と考えていたことがありました。
 
そんなことは結果的に無理でした。
 
無理と分かるとどうなるか。
 
「自分の心を把握できないことだってある」と分かるわけですから良い意味で諦めがつくのです。
 
諦めがつくとそれに関して対処しなければならないという悩みが劇的に軽減します。
 
そうすると自然と
「明日からまた頑張ってみるか」という気持ちになります。
 
諦めて、また頑張り、つまずけば諦め、そしてまた頑張る。
 
これの繰り返しで自分の進むたい道を少しずつ歩いていけばいいと思います。
 
 
僕のところにお越しのときは諦めの気持ちでお越しの方が大半です。
「まだ自分でやれる」という時にはお越しにならんものです。
 
この良い意味での「諦め」、そして「本音で弱音を吐き出せたとき」が、また運気を取り戻し前向きに進むきっかけになるということを、教えてくれたのはお越しくださる方々のお姿でした。
 
悩むことは悪くない。
 
弱くなること、自信をなくすことは悪いことではないのです。
 
その気持ちを素直に認めることから始まるのではないでしょうか。
 
肩書き、立場、これらは自信になる反面、思わぬ重圧となり苦しむ縛りになることもあるということです。
 
僕もカウンセラーとして現在活動していますが、あくまで「我」を忘れてはならないと思います。
 
 
最近感じたことをツラツラーッと書き綴ったので起承転結があいまいでごめんなさい。
 
でも感じたことをやっと文章に出来ました。
 
お見苦しい文章もあると思いますが、今日も最後までお読みくださいましてありがとうございました。
 
 
 

意味!意味!意味を知りたい!!と意味づけに翻弄されれば本当に必要なことに気づけなくなる

起こる出来事の意味づけをしたい。

 
僕はよく、不思議な流れが起きると「有難い!」の後には「だけど...なんでこのような流れになったのだろう?何の意味があって?」
と有難いで終わればいいものを、それを追及したがるクセがありました。
 
確信を持ちたかったんです。
 
「全てを知りたい分かりたい」
 
その思いで、様々な心理学やスピリチュアルと名のつくセミナーを受講しました。
 
だけど、専門用語や知るためのテクニックを知識として頭に入れれば入れる程、よく分からなくなりました。
そして不思議な流れが急激にストップするということがありました。
 
エネルギーというものは考えて分かるものではなくて感じるもの。
 
エネルギーというものは常に変化している。
 
常に変化していくものを「全て分かった」気になっていると、「本当に今、大切なこと」に気づけなかったりするものです。
 
本当に今、その意味を知る必要があるならそのように守護者の方々が導くでしょう。
 
今はまだ知らなくてもいい(むしろ知らないほうがいい)ことを不必要に教えてくる守護者なんていないのです。
 
お越しくださる方々で、
不思議な流れを現実的に体感されたときに
「すごい不思議なことが起きたんです。この意味は何なのでしょう?すごい有難いんですけど。なんでこんなことになっているのか」
とご質問を受けることはあるのですが、
 
「有難いことが起きた。という意味で良いのではないでしょうか。見えないエネルギーに全ての意味づけはできませんから。ただ有難いで良いのではないでしょうか」
 
とお答えするようにしています。
(意味づけしたくなるその方のお気持ちは重々分かるんですけどね)
 
まだまだエネルギーなんてものは摩訶不思議なもので、全て解明できるはずもないのに、全てを分かった気になってしまえば、それ以上の成長はありません。
そして良い意味での想定以上の流れに乗れなくさせているのは自分自身だということです。
 
と、タイムマシンがあるのなら僕も過去の自分にそのように伝えに行きたいですねー。
まぁ、そういったことも体験する必要があったということでしょう。
 
「有難い」とは
普通にはありえないことが起こる、ということなのですから、ただただ感謝なのですね。
 
そのありえない出来事の背景では、守護者の存在が影ながらにして必死に作ってくださった流れがあるのでしょうから。
 
 
それでは今日も最後までお読みくださいましてありがとうございました。
 
 

自分が持つエネルギーが整ってゆく中で、見える・感じる、世界観は確かに変わってゆく

誰しもがエネルギーを持っている。

 
人だけではない。
 
動物も物も、全てがエネルギーを兼ね備えている。
 
目に見えるから、見えないから
という賛否両論はどうでもいいこと。
 
気付く人は既に気づいているはず。
 
人間関係では、人が持つエネルギーを良くも悪くも与え合い受け取り合っている。
 
 
僕は思えば幼稚園の頃から、人のエネルギーに圧倒された。
 
幼稚園に入園するまでは一人で遊んでいても平気なくらい、むしろ楽しめるくらいマイペースだった。
目の前に人がいなくても自然と接しているだけで十分に楽しかった。
 
近隣にお寺があるが、そのお寺さんで夕方まで一人で遊んでいても楽しかったのは自然のエネルギー(その場の空気、草花、石などなど)戯れていることの方が自分らしかったからだ。
 
幼稚園に入園すると、そこは自然との戯れではなく、人同士での交流。
 
僕は年長の年から入園したので(僕が早めに幼稚園に入りたくなかったため)、既に形成されている人間関係に圧倒された。
 
自然にはない、人から溢れるパワー。
 
そのパワーについていけず、幼稚園では最初の頃は泣いてばかりで、他の子がいつも面倒を見てくれた。
それを通して人と接する有難さを学ぶと同時に大きな劣等感も生まれた。
 
「みんなに出来ることが自分には出来ないんだ」
 
いつもそのことで頭がいっぱいになった。
 
自信を持って堂々と過ごしている同級生をみては激しく劣等感にかられる。
 
幼稚園卒園後に小学校に入学したときには、さらにカルチャーショックを受けた。
 
あまりにも人数が多すぎる。
 
「泣きたい」
「辛い」
「学校に行きたくない」
「頭がボンヤリする」
 
誰かに相談すると
「君は敏感すぎるんよー」
「気にしない人になりなさい」
「まだ子供なんだから、楽しみなさい」
とアドバイスを受けるけど、
 
聞けば聞くほど自分がよく分からなくなってしまったのだ。
 
自分が自分じゃない。
 
というか自分て何?!
 
 
今迄の自分を変えたいと元気なフリ、強そうな自分を演じ続けたこともありました。
すると余計分からなくなってしまった。
 
 
今なら分かりますが、その頃の自分はエネルギーを感じ取っても(受け取る)(受け取る)(受け取る)のオンパレードで、エネルギーの防御、浄化、補充が全く出来ていなかったのです。
 
 
人の影響力を良くも悪くも受け取りやすかったということです。
 
それは社会人になってもずっと続きました。
 
学生の頃はとても生き辛く感じていましたから、早くおじいちゃんになってゲートボールとかやりたいな、って考えていた頃がありました。
 
せめて社会人になればきっと自由になれると、小学生の頃はいつもカレンダーの一日一日乗り越えたと印を付けながら大人になる日々を待ちわびていた頃もありました。
 
しかし、社会人になって自由の身になるも、サラリーマンとして就職してからはまたしても様々なエネルギーを直に受け取りすぎてしまい翻弄される日々が続いたわけです。(長くなりすぎるので、また追々記事に書ければと思います)
 
パワー、影響力、エネルギー、どんな表現でも同じことですが、この世には間違いなく、自分にとって合う合わないのエネルギーが存在していることは間違いありません。
 
誰もが、
「この人合わないな」
 
「気が合うな」
 
「場所の心地がいい」
 
「なんか違和感」
等感じたことがあると思います。
 
それらは全てエネルギー、影響力、パワーから自然に感じ取っているものです。
 
 
万人に完璧な正解というものはなく、一人一人感じ方は異なります。
 
本当は誰しもが自分に何が合うか合わないかというのは分かるものなのですが、日々生きてゆくうえで様々なエネルギーを浴びていき、溜まってしまうと感覚のアンテナが歪み、自分が何を感じているのかが分からなくなってしまうのです。
 
僕は、人との出会いを通じてエネルギーを改善することの大切さを知りました。
 
エネルギーを改善することを知らなかったら今の自分は間違いなく今の仕事が出来ていなかったことでしょう。
 
自分の持つエネルギーは改善してゆくと、
好き、嫌い、合う、合わないがハッキリとしてきます。
 
それだけでなく、今迄自分を当たり前のように支えてくれている守護者の存在に気づきます。
 
守護者と書くと、ミステリアスな印象を想像しますが、ご先祖様やご神仏だけでなく、生きている人の中でもあの人と自分は、お互いに支え合っている仲なのだなぁと気付くことが出来るようになり、
「人間関係って色々あるけど素晴らしいもんだ」
「やっぱり自然て素敵だ」
と感覚が戻ってきます。
 
改善しても、エネルギーをいつも整えておいたほうがいいわけですから、日々自分のエネルギー状態のチェックを行っています。
 
自分では全てチェックしきるのは無理ですから、人の力もお借りすることは当然のようにあります。
 
現実的な案件に関してはそれぞれの専門機関のお力をお借りしてますし、エネルギーに関してはお寺や神社の方々のお力をお借りしている。
 
決して一人では為せません。
 
やはり一人では生きれないのです。
一人では保てない。
 
最近出会った素敵なお寺のお坊さまがこのようなことをおっしゃっていました。
 
「自分の力で願いを叶えるのは限界があります。物事を成就させるのは、自分の最大限の努力と、生きている人の助けと、見えないご守護やご神仏の加護の3つが成り立って初めて成就される。どれが一つ欠けても願いは成就しないんです」
と。
 
まさにその通りなのだと思います。
 
自分ひとりで全てをやらなくちゃと思えば、孤独しか生まれません。
 
適材適所。
 
得手不得手は誰にでもあります。
 
見えないエネルギー守護の存在、ご神仏も得手不得手があるわけですから日本は八百万の神々と言われているのでしょうね。
 
人同士でももっと互いに相互扶助し合える世の中になっていったら素敵ですよね。
 
誰しもが自分のパワーが整い出すと、見える感じる世界観はグッと変わってくるのです。
 
 
 
それでは今日も最後までお読みくださいましてありがとうございました。